sxy3のブログ

思ってることを吐き出す場。ペッ

萩尾望都『残酷な神が支配する』/『イグアナの娘』を読んだ

 
 
萩尾望都残酷な神が支配する』を読み終えて数ヶ月経った。電子書籍で一気読みして、そのあとあまりの衝撃に放心したようになったり、逆に重い鉛を抱えているような気分になったりしたけれど、今ぐらいになってようやく冷静な気持ちで振り返ることができるようになってきた気がする。というより、今になってむずむずと振り返りたい、というか、何か吐き出しておきたいような欲求が出てきたようなので書く。
 
時間が経っても印象に残っているのは、所謂センセーショナルな場面、グレッグによる繰り返される虐待やジェルミとイアンのセックス、バレンタインの秘密、といった場面ではなかった。読んでいる当時は確かに強烈な印象のあるシーンだったし、作中でも動きのある大きな出来事として扱われているのだけど。それより今になっても心に引っかかっているのは、最終巻の終盤でジェルミがこぼす、親は神で子供はその神に捧げられた生贄だった、全ての子供がそうだった、という趣旨の言葉(正確には覚えていないし参照する気力はないけど、趣旨はこうだった)。
 
これが強く印象にこびりついているのは、まあその言葉のメッセージ性というのもあるのだけど(タイトルに繋がるくらいだから)、そこのコマのその台詞のトーンだけがこの漫画から変に浮いているように感じたからだ。一読して、ん?と引っかかった。内容に疑問があるというのではなくて、そこだけ急に作者が顔を出した気がしたから。『残酷〜』はテーマ性で注目されがちな作品だと思うが、決して押しつけがましさ、うるささというものは、その場面に至るまで感じられなかった。むしろパブリックスクールやカウンセリングコミュニティの描写、人物造形、どれも一枚絵のように隙がなく構築された世界がそこにあり、作者の気配をすぐそばに感じるということはなかったのだ。でもここにきて、これはジェルミの言葉でありながら、そうではない、作者の言葉じゃないかと感じた。急に視点がとても上にいったような。流れもあるかもしれない。唐突にこぼす感じだったから余計にそう思ったのかも。
 
それが嫌とは思わなかったのだけど、とにかく気にはなった。それで、その親についての台詞がずっと引っかかっていた。ここまでバランスを保ってきた作者が、ここでぐっとトーンを変えてしまうほど、この言葉に込められた意味は作者にとって重いのだろうかと。
 
 
最近になって同作者の別作品『イグアナの娘』を読んだ。世代ではないけどドラマで有名だったらしく、あらすじを大方知った状態で読んだので、表題作「イグアナの娘」はそれほど琴線に来る、という感じではなかった。発表された頃には今ほど毒親に関する言説はなかっただろうから、画期的だったのは理解できる。むしろ気になったのは「午後の日射し」という短編。夫に浮気された主婦が料理教室で若い好青年に出会い、淡い好意を抱くが、関係性を深めることに躊躇しているうちに、その青年が自分の大学生の娘と楽しげに過ごしていることを知り、やっぱり夫が落ち着く、と収まる。昼ドラ的だ。娘に対する母親の嫉妬、ライバル心というのは「イグアナ〜」にも共通するテーマだが、疑問に思えてくるのは妻が夫の浮気を強く追及したり離婚を考えたりしないところ…。この妻は一見して専業主婦のようだし、時代背景もあってのことなのか、それともここを疑問に思う自分の感覚が世間からずれているのか。いや、令和的価値観に染まった人間からするとやはり、どうしてこの女性は不当な扱いを受けてもやっぱり夫よねえ、となるのか理解できないのだ。夫がそんな奴なら別に構わず自分だって青年と恋愛すればいいじゃないか、娘ももう大学生なら家庭がどうということもなかろうに。
「午後の日差し」は1994年初出らしく、うーん、その時代を知らないけど、女性といえば夫を立てる専業主婦、の時代なのかね。まあ、でも作中でこの母娘の世代の違いによるジェンダーに関する価値観の違いにも触れられているから、作者はこの母親は旧世代的な価値観の人間として自覚的に描いているのだろうか。それにしてももやもやする。
 
ちなみに「イグアナ〜」は1992年初出、『残酷〜』は1992年連載開始らしい。
最近は『残酷〜』で抱いた印象と「午後の日差し」のプロットへの何ともいえない違和感を合わせて考えてみたりしている。
萩尾さんは『残酷〜』で世界観のトーンを崩してまで(と個人的には感じ取った)、親=神の支配を告発し、有名作となった「イグアナ〜」でも同時期とあって根幹は同じテーマを扱っている。しかしこれまたほぼ同時期の「午後の日差し」では、夫—家父長制—神に不当な扱いを告発することもない女性たちの姿が描かれる。こちらは終始穏やかなトーンで、まさに昼ドラのように、何でもないような話のように描かれているのも前者とは対照的だ。
何だかここらへんに女性であり娘であり妻であり母親である人のアンビバレンスな状況、また萩尾さんご自身もそれを完全には整理できない(難しすぎる、当たり前だ)でいる、というような感じが滲み出ているような気がする。特にこれらの作品群が出た頃は均等法だ男女平等だと大変だった時期に重なるだろうから、その時代的な混乱も含んでいるのだろうか。もしくは萩尾さんご自身の関心の比重がやはり親と子の問題の方にあったということだろうか。
 
 
萩尾望都作品で初めて読んだのは『トーマの心臓』で、SFファンタジーとして好きなのは『マージナル』だ。『トーマ〜』はキリスト教的価値観にピンとこないせいか読み流してしまったのだけど、しばらくして再読したら何か思うのだろうか。
 
『残酷〜』と『イグアナ〜』を読んだのは、作品への興味もあったがアダルトチルドレンや虐待サバイバーの心理について知識を得るのが主な目的だった。その目的から言えば得るものは大きかったけども、読んでしばらく不安定になったのは否めないから、ここでいったん吐き出して、当分思い出さない、触れないようにしようと思っている。