sxy3のブログ

思ってることを吐き出す場。ペッ

保護と支配



保護と支配は一体なんですよ、と先生は何でもないように何度も言った。帝国主義の時代の授業だった。

世界史は高校で習った教科の中でもベスト3に入るくらいには好きだった。覚えた用語、年号、王朝の名前なんかは忘れてしまっても、世界史的なモノの見方は焼きついて、大学での学びにも、日常生活での気づきにも顔を出す。世界史を好きだったのもその見方を手に入れるのが面白かったからだ。世界規模で社会の成り立ち、変遷がわかれば、今自分が立っているのがどういう場所か相対化して位置づけられる。よくわからないけど生まれてきてここにいる、に座標がつくのは大きい。

世界史の先生はそのお父さんも世界史の先生だったという生粋の世界史の先生だった。

的を得ているなあと思った。確かに、イギリスは植民地を保護するという名目で支配していた。保護の建前がなければ体裁が悪いし、支配される方もその保護に依存せざるを得なくなる。イギリスだけじゃなくて、その時代の潮流は大方そこに帰着するようだった。

帝国主義と近代社会の成立は切っても切れない関係だ。
そして今の社会はその近代社会の末裔だ。

保護者、という日本語がある。
子供の親、養育者を指す。
子供は成人するまで保護者の保護下にある。

保護者というのは支配者のことだ。
子供は生まれたときから支配者に阿らなければ生きていけない。その保護に依存し支配に甘んじなければ生きていけない。

親子関係、家族、家父長制について考えていて、世界史教師の言葉を何度も思い出すのは決して偶然ではないだろう。


嫌悪感は傷に気づくきっかけになる

 
 
 
少し前まで、男女のカップルが気持ち悪くて仕方がなかった。別に知り合いでなくても、街中、大学、至る所で見かける寄り添い合う一組の男女というものが気持ち悪かった。
それはリア充爆発しろ的なやつじゃなくて、性嫌悪というわけでもなくて、何というか、ゾワッとして寒気がして意味もなくイライラする、というような感じで、自分でもどうしてそんなふうに思うのかよくわからなかった。
自分自身が誰かとカップルになることに対しては気持ち悪さという形では表出してこなかったけど、誰かと親密になる度にどうしようもない苛立ち、破壊衝動のようなものが心の奥から湧いて出てくる感じはあって、まあ根っこは同じだったと思う。
 
最近わかってきたことから考えると、たぶん自分の家族に慈しみ合う(ところを見せてくれる)男女の対がいなかったからではないかと思う。親を筆頭に、祖父母、親戚まで見渡しても、連鎖なのか何なのか、不幸そうな夫婦ばかりだった。
他の人間関係は家の外でも学べても、男女の親愛、パートナー同士の愛情というのは、意外と家の中でしか皆表現しないものだから、私はそういうものを目にして学ぶ機会が極端に少なかったのだと思う。
代わりにいがみ合い、罵り合い、見下す、軽んじる、従わせる、そういうのはよくわかる、というか、最近までそれが男女関係の型だと無意識に思っていた節がある。
だから外でそうではない男女を見ると、反射的に気持ち悪!となっていたのだと思う。そう、本当に、例えば集合体恐怖症でうっかり集合体を視界に入れてしまった時のような感じで気持ち悪かったのだ。
 
今はこのことを言語化するのに成功したおかげか、男女のカップルに関してはそこまで気にならなくなってきたように思う。自分がカップル当事者になっても平気かどうかはまだわからないが、少なくとも衝動の正体の尻尾が掴めただけマシになっていると思いたい。
 
仲の良さそうな夫婦が気持ち悪い。
子供連れの家族が気持ち悪い。
これはまだ治っていない。
まあ、見ると寒気がするというだけで、特にそれ以上の害はないのだけど、でも変に反社会的な感じがするし、自分がとても嫌なやつのようにも思える。
家族は素晴らしい、夫婦愛は美しい、そういうのに心の底から共感はできなくても、それに過剰に反応しない、フラットの状態になれればいいなと思っている。
それにはもう少し時間をかけて、ぐちゃぐちゃになっているのを整理していく必要があるのだろうと思う。
 
 

カウンセリングに通う

 
 
カウンセリングに行き始めて数ヶ月になる。
 
元々臨床のカウンセリング、カウンセラーにあまりいい印象はなかった。
中学の時のスクールカウンセラーに思い詰めて家のことを話したら、お母さんも大変なのよ、と言われたことがある。その時はそういうものなのかなあともやもやと思ったのだが、振り返ってみてあの時のカウンセラーがもっとプロとしてマシな対応をしてくれていたら、後々への響き方も違ったろうにと思った。
大学の学生相談室の相談員は丁寧ではあったのだが、当時の精神状態からして定期的に予約を取って通うということが難しく、結局一度行ったきりになって後味の悪さだけが残った。
というわけで今更カウンセリングに行くのもなあと、ごまかしごまかしきていたけれど、去年の秋頃決定的にメンタルが大揺れする出来事があって、これは一人では無理かもしれないと直感的に危険を感じたので、行くことにした。
 
まだ数回なのもあってか、効果はよくわからない。
担当の方によるのだろうけど、私の担当の方は年上の女性で、傾聴と助言のようなことをしてくれる。正直もっと心理学的なアプローチをしてみてほしいと思うところもある。でも知識がないのでこんなものなのかもしれないとも思う。
 
ただ一つ言えるのは、その時間にお金を払って約束する、という行為自体は、精神の安定につながっているということだ。
自分のためにそれなりの金額を払って、自分の話をする、ケアをする時間を買うというのは悪いものではないと思う。
日常的に湧き上がってくる負の感情も、何日になったら話しに行くのだ、と思うことで少し落ち着く。
ベッドから起き上がれない日が続いて自分はやばいんじゃないかと思っても、話しに行くとそういうこともあるよな、と少し冷静になれる気がする。
からしばらくは続けるつもりだ。
 
 

萩尾望都『残酷な神が支配する』/『イグアナの娘』を読んだ

 
 
萩尾望都残酷な神が支配する』を読み終えて数ヶ月経った。電子書籍で一気読みして、そのあとあまりの衝撃に放心したようになったり、逆に重い鉛を抱えているような気分になったりしたけれど、今ぐらいになってようやく冷静な気持ちで振り返ることができるようになってきた気がする。というより、今になってむずむずと振り返りたい、というか、何か吐き出しておきたいような欲求が出てきたようなので書く。
 
時間が経っても印象に残っているのは、所謂センセーショナルな場面、グレッグによる繰り返される虐待やジェルミとイアンのセックス、バレンタインの秘密、といった場面ではなかった。読んでいる当時は確かに強烈な印象のあるシーンだったし、作中でも動きのある大きな出来事として扱われているのだけど。それより今になっても心に引っかかっているのは、最終巻の終盤でジェルミがこぼす、親は神で子供はその神に捧げられた生贄だった、全ての子供がそうだった、という趣旨の言葉(正確には覚えていないし参照する気力はないけど、趣旨はこうだった)。
 
これが強く印象にこびりついているのは、まあその言葉のメッセージ性というのもあるのだけど(タイトルに繋がるくらいだから)、そこのコマのその台詞のトーンだけがこの漫画から変に浮いているように感じたからだ。一読して、ん?と引っかかった。内容に疑問があるというのではなくて、そこだけ急に作者が顔を出した気がしたから。『残酷〜』はテーマ性で注目されがちな作品だと思うが、決して押しつけがましさ、うるささというものは、その場面に至るまで感じられなかった。むしろパブリックスクールやカウンセリングコミュニティの描写、人物造形、どれも一枚絵のように隙がなく構築された世界がそこにあり、作者の気配をすぐそばに感じるということはなかったのだ。でもここにきて、これはジェルミの言葉でありながら、そうではない、作者の言葉じゃないかと感じた。急に視点がとても上にいったような。流れもあるかもしれない。唐突にこぼす感じだったから余計にそう思ったのかも。
 
それが嫌とは思わなかったのだけど、とにかく気にはなった。それで、その親についての台詞がずっと引っかかっていた。ここまでバランスを保ってきた作者が、ここでぐっとトーンを変えてしまうほど、この言葉に込められた意味は作者にとって重いのだろうかと。
 
 
最近になって同作者の別作品『イグアナの娘』を読んだ。世代ではないけどドラマで有名だったらしく、あらすじを大方知った状態で読んだので、表題作「イグアナの娘」はそれほど琴線に来る、という感じではなかった。発表された頃には今ほど毒親に関する言説はなかっただろうから、画期的だったのは理解できる。むしろ気になったのは「午後の日射し」という短編。夫に浮気された主婦が料理教室で若い好青年に出会い、淡い好意を抱くが、関係性を深めることに躊躇しているうちに、その青年が自分の大学生の娘と楽しげに過ごしていることを知り、やっぱり夫が落ち着く、と収まる。昼ドラ的だ。娘に対する母親の嫉妬、ライバル心というのは「イグアナ〜」にも共通するテーマだが、疑問に思えてくるのは妻が夫の浮気を強く追及したり離婚を考えたりしないところ…。この妻は一見して専業主婦のようだし、時代背景もあってのことなのか、それともここを疑問に思う自分の感覚が世間からずれているのか。いや、令和的価値観に染まった人間からするとやはり、どうしてこの女性は不当な扱いを受けてもやっぱり夫よねえ、となるのか理解できないのだ。夫がそんな奴なら別に構わず自分だって青年と恋愛すればいいじゃないか、娘ももう大学生なら家庭がどうということもなかろうに。
「午後の日差し」は1994年初出らしく、うーん、その時代を知らないけど、女性といえば夫を立てる専業主婦、の時代なのかね。まあ、でも作中でこの母娘の世代の違いによるジェンダーに関する価値観の違いにも触れられているから、作者はこの母親は旧世代的な価値観の人間として自覚的に描いているのだろうか。それにしてももやもやする。
 
ちなみに「イグアナ〜」は1992年初出、『残酷〜』は1992年連載開始らしい。
最近は『残酷〜』で抱いた印象と「午後の日差し」のプロットへの何ともいえない違和感を合わせて考えてみたりしている。
萩尾さんは『残酷〜』で世界観のトーンを崩してまで(と個人的には感じ取った)、親=神の支配を告発し、有名作となった「イグアナ〜」でも同時期とあって根幹は同じテーマを扱っている。しかしこれまたほぼ同時期の「午後の日差し」では、夫—家父長制—神に不当な扱いを告発することもない女性たちの姿が描かれる。こちらは終始穏やかなトーンで、まさに昼ドラのように、何でもないような話のように描かれているのも前者とは対照的だ。
何だかここらへんに女性であり娘であり妻であり母親である人のアンビバレンスな状況、また萩尾さんご自身もそれを完全には整理できない(難しすぎる、当たり前だ)でいる、というような感じが滲み出ているような気がする。特にこれらの作品群が出た頃は均等法だ男女平等だと大変だった時期に重なるだろうから、その時代的な混乱も含んでいるのだろうか。もしくは萩尾さんご自身の関心の比重がやはり親と子の問題の方にあったということだろうか。
 
 
萩尾望都作品で初めて読んだのは『トーマの心臓』で、SFファンタジーとして好きなのは『マージナル』だ。『トーマ〜』はキリスト教的価値観にピンとこないせいか読み流してしまったのだけど、しばらくして再読したら何か思うのだろうか。
 
『残酷〜』と『イグアナ〜』を読んだのは、作品への興味もあったがアダルトチルドレンや虐待サバイバーの心理について知識を得るのが主な目的だった。その目的から言えば得るものは大きかったけども、読んでしばらく不安定になったのは否めないから、ここでいったん吐き出して、当分思い出さない、触れないようにしようと思っている。
 
 

翻訳教室に行った

 
翻訳教室に数回出た。英語の短編小説を訳して、講評をもらったり質問したりした。
 
訳すのは面白い。原語の言葉を拾って、日本語のどんなニュアンスが最も近いか、ふわふわとした中から探り当てていく感覚が癖になる。
 
他の参加者の方の訳を色々見比べて、同じ原文でも十人いれば十通りのトーン、ニュアンスになるのが良いと思った。もちろん外してはならない決まった訳し方がある言葉も多いけど、それが訳文を決定づけるわけでもない。
 
訳文を読んでいるとその人の固有の言語体系が浮かび上がってくるようで、それはなんだか窃視的な楽しみがある。同じ言語でも人それぞれの固有の言語がある、という話、昔言語学か何かで聞いたように思うけど、その概念の名前はなんだったか思い出せない。でもとにかく、それぞれの人の土着的な感覚、身体感覚とも言えるかもしれないけども、そういうのがかおってくるのはとても面白いと思った。商業的な翻訳技術としては、そういう個別性は排したフラットな方が良いのかもしれないけど、今回はあくまで趣味のつもりでやった講座だったし、趣味の楽しみとしては豊かだと思う。
 
翻訳者の方に教わるのは初めてで、始める前は何かキッチリした翻訳ルール、鉄則みたいなものがあるのかと想像していたけれど、意外とそうでもなさそうだった。というか、言葉自体が流動性や曖昧さをどこか残しているナマモノなのだから、そういう交通ルールみたいな杓子定規なのはそぐわないのかもしれないと思った。これは小説の翻訳だったというのもあると思うけど。
 
子供の頃は英米のYA小説ばかり読んでいた(漫画を忌み嫌う親だったので田舎住みでは日本の面白い漫画に触れる機会がなかったし、友達に借りてもコソコソとしか読めなかった。大学生になってから貪るようにアニメや漫画を履修したのだけど、英米YA小説と日本の漫画・ラノベ界隈は遠いようで割と世界観やノリが似ていると思う)ので、世の中に翻訳という作業があることは早くから認識していた。好きな訳者は『ダレン・シャン』シリーズなどの橋本恵さんで、読んだのは中学生の時だったけれど、もともと日本語で書かれたのかと思うくらいすらすら読める訳、それでいて原文の世界観が持っている日本的ではない空気感をそのまま伝えてくる訳が素晴らしいと思った。
自分で訳す、ということを覚えたのは高校の時で、通っていた塾の英語教師が、少し受験英語の枠を超えた小洒落た訳し方というものを教えてくれた。無味乾燥な解答としての自分の訳が、生きた言葉に近づくようで興奮した。決して難しい単語でなくとも、むしろ易しい短い単語の方がイメージの広がりがあって訳しにくい、とか。ほうほうと学ぶのが楽しかった。
とか、そんなことを思い出した。
 
そう、学ぶのって面白いよな、と思った翻訳教室だった。受験や仕事のためのお勉強とは違った純粋な学びの楽しさ、同じことに興味を持つ人たちとその場を共有することの嬉しさみたいなもの。
 
今のところ翻訳をスキルとして磨いてどうの、ということは考えていなくて、しばらくこの感じで楽しみたいなと思う。趣味と聞いたらスポーツとか旅行とか手芸とかなんかそういうものを思い浮かべるけど、翻訳作業を趣味にするのもなかなかいいんじゃないかと思っている。そういえば、近藤聡乃『A子さんの恋人』では翻訳家のA君が趣味を漢字にしていたっけ。ちょっと違うけど連想。

受験と自己肯定感

 

自己肯定感という言葉は何でもありのブラックボックス化しているような気がしてあまり好きではない。しかし受験という言葉の持つざらつく感じによく似合うので、ここでは使おうと思う。自己肯定感という言葉についてここで想定しているのは、自分のことをそのままで良いとゆるす状態のことだ。

 

最近よくこの両者の関係について考える。たぶん人生で三度目の 受験生 をやっているからだと思う。

簡単に言うと、受験という装置は自己肯定感をある一定の形に変えてしまうのだと思っている。

試験には正答がある。それにどれだけ添うことができたかが評価の全てだ。

もちろんある程度の思考力を試されているのは事実だし、考えるのは自分だ。

でも結局は、本質的には、ある求められる像があって、それにどれだけ近づけたか、ということを測るのが試験であり、そこに時間や環境の制約がかかってくるのが受験というものだ。

 

自己肯定感の低い子供だったと思う。子供の頃から子供らしくなかった。

原因ははっきりしていて、自己肯定感が低い親に依代として育てられたからだ。

あの人は子供の前で早く死にたい長生きしたくないと口走れるほど自分のことに精一杯で、あまりにも自分の問題を解決しないまま子供を持ったと思う。

娘を頭がいい子に育てたがった。

自分が若い頃、特に目を引く学歴やスキルがない若い女性として苦労したからだとは思う。

でもそういう素朴な願いを超えて、どこか育成ゲームや競馬のように、子供の私が成績を伸ばすのを喜んだ。

 

初めて受験というものを認識したのは9歳で、とても幼かった。

塾は緊張したしどこか殺伐とした空気があった。

ちょっとやんちゃなムードメーカーの男の子を講師がよく廊下で見せしめのように怒鳴りつけていた。

席順はテストの成績順で変動して、クラス内には明確な序列があった。

本当におかしな話だ。大人だってそんな露骨に暴力的で野蛮な場面にはそうそう出くわさない。

 

私は初めての受験に「成功」したし、その後の受験もそのままの勢いで「うまくやった」。

世の中受験に「失敗」しようものならその経験について本人も周りも掘り下げるものかもしれない、でも一度「成功」となったらもうそれでおしまいになる。よかったね、万々歳。

でもここ4年くらい考えていたのだけど、あの体験はそう単純なものではなかったと思う。子供の頃から曝された強烈な体験で、しかも受験はそれ単体の出来事として存在するのでなく、色々と背景の事象があるから、簡単に成功体験と言うことは私はできない。むしろ考えていたのは負の側面の方。

 

私は受験というものにのめり込んでいたと思う。

なぜなら他に逃げ場がなかったからだ。

いつから親の仲が悪くなったか覚えていないけど、たぶん初めて受験する頃にはまともに話してなかったと思う。

夏休みが憂鬱だった。家にいたくないので、連日朝から晩まで自習室に通った。10歳だった。極端だったと思う。塾の友達でもそんな強迫的な子はいなかった。

薄々気づいてはいたことだけど、あの人は私について勉強のこと以外知らなかった。

何のテストが何判定かは知っていても、どんな音楽が好きか、何が嫌いか、どんな時嬉しいか、そういう詳しい中身に興味がなかった。これはいまだになぜなのかわからない。他の家族もそうだから、あの人たちは集団でそういうふうになっているのかもしれない。

家は田舎だった。一人でどこにも行けない。ふらっと出かけることができない。親が揃ってるとすぐキレて怒鳴り合い罵り合いになるし、母親は「出来の良い優しい娘」にハマってる。

髪を抜き始めたり指の皮を剥いたり口の中を噛んだりし始めたのはあの頃だ。それが自傷行為の一種だなんて知らなかった。

 

この国で一番偏差値の高い大学に来たけれど、大学時代はずっと調子が悪かった。最近になって、たぶんそれが親から離れた反動だったと分かった。5年経ってもまだ反動が治らない。大したことだ。

何かを得たい、学びたいという前向きな意思があってあの大学に来たというよりは、とにかく早く家を出たかったし、都会に逃げたかった。都会に行けばまだ息がしやすそうな気がした。小学生からずっと友達関係も難しくて、なかなか周りに馴染めないと感じていた。何か悪いことをしたつもりはないのに、いつも何となく浮いているような感じだった。成績のせいもあるし、家が荒れててその暗さが滲み出てたせいもあるかもしれない。今でも集団の中でうまくやっていくのは苦手だ。群れている人は怖いし、喋りも早くてついていけないような感じがある。

 

今落ち込んで腹が立っているのは、就職先を決めるとき、自分は結局親の機嫌を取ってしまったんじゃないかということだ。

あの人がずっと不安定だったせいで、私はあの人の顔色を無意識的にうかがってきたと思う。あの人のやり口は巧妙で、自分の意見をはっきり言わない。その代わり、気に入らないと不機嫌になる。家にはあの人と私しかいないから、不機嫌になられると息が詰まるような感じがして体が痺れて重たくなる。だから逆らえない。「空気」に逆らうのは子供の私には難しすぎたと思う。はっきり形のある「意見」にならまだ自分の考えを言えても(それも支配の中では難しいが)、何となくの圧に明確に不同意を示すと罵倒されるので、あれはとても難しいし、気力のいることだし、不当なことだ。

そういう中で20年近く過ごすと、癖が染みつく。自分の好き、嫌い、やりたい、いやだ、全部ぼんやりして何も感じなくなる。悔しい。よくわからないのが悲しくなる。(という感情があったことも最近わかった)

だから就職の時も、資格試験を受ける選択をしてしまったような気がしている。あの仕事がやりたいことかと言われると違う気がする。でも何がやりたいかわかるはずもない。いきなりそんな大きな「やりたい」なんて感情が感じられるはずがない。「いやだ」もよくわかってなかった。

虐待を受けた人や性暴力にあった人が、とても傷ついて、それでいてまた同じような環境や出来事に身を曝してしまうというのは心理学的によくある話らしい。新たな傷を自ら受けることで、過去に他者から受けた暴力は大したことではないと思い込みたいとか、感覚が適応してしまって暴力に安心し安全が受け付けなくなるとか、そういう話も読んだ。

自分が受けたことを虐待と言っていいのかわからない。でも私は長い間守られるべき時に守られてこなかったし、親よりも大人であることを求められ続けて、その横にはいつも受験や試験や勉強があった。その体験は今の不調と決して無関係ではなかったと思う。

だからもしかしたら、あの時、また受験の暴力を受けることに「安心」して、選択してしまったんじゃないかと思う。

 

自己肯定感の話に戻ると、受験は非常に危険な装置だ。なぜなら基本的に「そのままの自分でいることをゆる」さないのが受験の世界だからだ。受験の教義は今の自分に満足しないこと、できない足りないところを具に点検して改善し続けること。これはひいては資本主義のドグマでもある。よって学歴至上主義が資本主義社会の発展とともに加速するのも当然だし、「頭の良い人」がこの社会で特権的な地位を持っている(傾向にある)のも当然だ。彼らは最も良い出来栄えで資本主義が求める「人材」の形をなぞってきたのだから。

人の揺らぎや身体性を無視した受験界隈の風潮は心底嫌いだ。求められ追い詰められそこでしか息ができないと思わされていたので従ってもきたが、最近いよいよもって限界が来ているような気がする。いつまでもこの教義に素直に従っていては鬱っぽくもなる。

 

学ぶのが嫌いなわけじゃないし、新しいことを知ってほう、となるのは楽しい。

でも受験はそれとは全く別の話で、社会に組み込まれ組織化された権力装置だ。

たぶん肝になるのは、受験ワールドでの出来不出来と、自分という存在の出来不出来は全く関係がない、と軽やかに思えることだろう。残念ながらこれは言葉で言うのは簡単で、実際にその状態を保つのは難しい。少なくとも私は安定してそう思える(たぶん思う、という動詞が出ないくらい、当たり前に根本から確信して意識にも上らないくらいの方が良い気がするが)状態にない。これはまだ子供でこういうことを考えられる能力も視野もない時に、半強制的に受験体験をさせられたせいだと思う。元々根っこがぐらぐらだった人間に、受験という条件付き承認の経験は強烈すぎたと思う。依存性もあるし、それしかできない、それがないと価値がないからと自分の快不快を踏み躙って渇望してしまうのもタチが悪い。こんなに時間が経って、大学で自由な学びを経験した後でも、またそこに立ち戻ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

寝つきのよくない話

すんなり眠ることができなくなったのは、4年ほど前からだと思う。
その頃、上京して、知らない人に次々出会い、毎日違う時間割の中で過ごしていて、そのランダムな環境が負担になっていた。ある人との関係で決定的に行き詰まった。住んでいたマンションが改装工事に入り、部屋の窓が覆われてしまった。そういうことの積み重ねで、じわじわと眠れなくなっていった。
 
元々寝つきはよい方ではなかった。夜になるとよくわからない高揚感があって、面白いことをたくさん思いつけそうな感じがした。昼間の生活はずっとぼんやりしんどくて、夜の方が生きているような気がしていた。夜、真っ暗になると、ようやく誰にも邪魔されないでいられると思っていた。はっきり意識していたわけではなく、なんとなく夜の方が楽だという程度の認識だったが。
 
眠れないままカーテンの脇から漏れる青白い光を見る。光の筋が壁紙に伸びる。夜の方もこのまま伸びる。このまま、車の走る音だけが聞こえる、夜が続いて、わたしの時間が続く。すすんで錯覚したいと思う。
 
夜は聖域だ。布団の中のわたしには名前がなく、何者でもない。役割がなく、義務がなく、明るい世界では小さな子供ですらそれらに縛られているというのに、夜のわたしは屍のようにただあるだけだ。
 
狭間の時間を手放せないまま、屍を引きずって生きている。